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大歳商工会ブログ

山口県山口市の大歳地区商工業振興会の活動内容や年間行事、また地域の情報について載せてゆきます。

平成26年度鴻南三地区合同研修会

去る2月26日木曜日、大歳地域交流センターにて、大歳・平川・良城商工会合同の鴻南三地区合同研修会が行われました。今回の研修では、維新150周年を記念し、最近、山口県内各地でとみにご活躍の郷土歴史家、松前了嗣先生をお招きし「明治維新の策源地、山口市 ~歴史から未来を学ぶ~」と題して、高杉晋作と山口市の関わりについてのご講演を頂きました。

平成26年度鴻南三地区合同研修会

今年はNHKの大河ドラマにて「花燃ゆ」も放送され、明治維新の策源地としての山口県がクローズアップされておりますが、残念ながら山口県民全てが維新や歴史に詳しいわけではございません。私など、高杉晋作と言えば松下村塾、尊皇攘夷派、英国大使館の焼き討ちや奇兵隊の創出に関わったなどの断片的な知識と、また彼が萩に生まれ下関で没した程度の知識しか持ち合わせておりません。果たして、高杉晋作がどのような形で維新に関わっていたのか、攘夷から開国へと思想を切り替えた背景はなにか、そして山口市との関わりとは如何なるものなのか、興味津々で講演に聞き入った次第です。

では、聞きかじりの講演内容を少し・・・


平成26年度鴻南三地区合同研修会

松前先生の講演は、英国大使館の焼き討ちの翌年、文久3年(1863年)3月、京都におりました高杉晋作が周布政之助に説得されて萩に帰るところから始まりました。このとき晋作24歳。高杉晋作は27歳で没しておりますので、ここからの3年間、まさに激務の時代へと突入してゆく・・・はずなのですが、晋作、わりと気分屋。「暴れんなと言うなら坊主になるわー」と萩で隠遁生活を決め込みます。ところが急進的な長州藩の攘夷派が下関にてアメリカの商船ベンプローク号に砲撃を行い馬関戦争が始まります。

6月に反撃を食らって、毛利公に何とかしてよと頼まれた晋作は「志のあるものは身分に関係なく全て兵士に取り上げる」という奇兵隊を結成。お!ここで奇兵隊キターと思ったら、晋作、隊内の喧嘩の責任を取って8月には総督の座を降ろされます。何やってんだこの人。同時に奇兵隊の本陣も下関から秋穂へ飛ばされたそうです。

それでも毛利公に頼られてた晋作、当時、藩政を行っていた山口市に住めということで現在の県庁近くに移住します。10月には家族が遊びに来るなど、わりとのんびり過ごしていた模様。ちなみに奥さんの実家が現在の鰐石橋近くにあり、しばらく後にはそこの離れにも移り住んだとのこと。1863年と言えば、八月十八日の変で長州藩の尊皇攘夷派が京都から追われるなど激動の年なのですが、そんなのんびりで大丈夫なのか晋作。

と思ったら尊皇攘夷派が追われるとはどうゆうこっちゃと、1864年1月京都に向かった晋作。一応、言ってから出たにもかかわらず脱藩扱いされ3月末に萩の野山獄に投獄されちゃいます。酒に酔った周布政之助の激励などもあり、6月には出獄。でも牢屋生活が気に入って、今度は自宅の座敷牢へ篭ります。そこに、馬関戦争の報を聞きヨーロッパ視察から慌てて帰ってきた井上馨(いわゆる長州ファイブですね) が7月21日に座敷牢を訪ね、じっくり話し合った結果、「外国と戦っても無理。無理。これからは開国だー!」と一気に思想転換となったそうです。

平成26年度鴻南三地区合同研修会

ちょうどその頃(7月23日)、八月十八日の変で京都を追われた長州藩の尊皇攘夷派が京都進行を企てるも、これが大敗北。いわゆる禁門の変ですが、この戦いで尊皇攘夷の急進派が200名近く戦死。また御所に砲撃したということで、長州藩は朝敵となりこれが後の長州征伐へとつながっていきます。

8月に入って「座敷牢に居ないで山口においでよー」と毛利公からオファーがあり、8月4日に山口に着くも、8月5日には4国艦隊による下関砲撃事件が勃発してしまいます。昨年のベンプローク号砲撃に対する報復ですね。これで、長州 VS イギリス+フランス+アメリカ+オランダ+長州以外の日本全部みたいな感じで、正に長州は四面楚歌。晋作は政務職に任命され、先ずは連合国との講和に当たることになります。

そうして講和の際に通訳として連れて行ったのが、子分の伊藤博文。講和とか挙兵とか無茶やるときは大体、伊藤を連れて行ったようです。で、この講和が面白い。

連合「賠償金を差し出せ」
晋作「幕府に言われてやったんで、賠償金は幕府に言ってね。」
連合「じゃ、じゃあ、彦島を差し出せ」
晋作「そも日本は高天原の・・・」
(と古事記を暗唱。要は日本は神代の昔から他の国に植民地化されたことなどないよということなのですが、どうやって訳したんでしょう?)
連合「あのさ、お前、謝る気ないだろ」
晋作「長州はまだまだやる気あるよ。なんならやる?」

といった調子で乗り切ったようです。講演にはなかったのですが、伊藤博文が高杉晋作を評した言葉があります。「動けば雷電の如く発すれば風雨の如し、衆目駭然、敢て正視する者なし。これ我が東行高杉君に非ずや。」でして、今風に訳すと、「動けば雷、話せば嵐。みんなめん玉ひん剥くぜ。あれが俺の兄貴だぜ。」ってところでしょう。たいがい酷い目にあってるのに、兄貴マジリスペクトな伊藤翁も相当変わった方です。

さて、連合国との講和を乗り切った晋作、次は長州征伐に向き合わなければなりません。ところがこの時期の長州藩内は幕府恭順派が実権を握り、仲の良かった井上馨が滅多切りにされたり、周布政之助が自害に追い込まれたりします。いらいらの募る主戦派の晋作は、1864年12月に長府の功山寺でとうとう決起。そう。やるときはやるんです。

公家の三条実美に「これよりは長州男児の肝っ玉をお目にかけ申す」と言い放ち、わずか80名の部下を連れて、2000を超える幕府恭順派との戦いに向かいます。これに冷や飯を食っていた諸隊が呼応し、やがて晋作軍は長州藩との内戦に勝利。その勢いを駆って1865年11月には第2次長州征伐にも勝利を納め、幕府軍のまさかの敗北から時代は一気に維新へと傾いていくのでありました。ででんでーん。



平成26年度鴻南三地区合同研修会

と、かなり端折りましたが、いやしかし、一人の人間の生涯を追いながら、その時代の背景と周りの人物の動きを伺うことで、点が線になりそして面に広がってゆきました。松前先生のお話も大変楽しく、あらためて維新の志士について学び直してみたいという動機を頂いた、素晴らしい研修会であったように思います。松前先生、ありがとうございました。また、出席されました皆様、お疲れ様でございました。できれば定期的にこうした勉強会もいたしましょう。

文責:立石英一郎

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